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第12章 三江の風情(1)

寧波の歴史と文化には強い地域的な個性を持っている。江南水郷の普遍的な人文特色を持ちながらも、独自な儒商文化の精神にも富んでいる。「詩書伝家」という文化伝統が「経世致用」と相まって、その精神を作り出し、「静若処子、動如脱兔」(普段は処女のように大人しいが、いざとなると、脱兎のように素早く行動する)のような処世術に表れている。もともと寧波出身の三十万の華僑は世界各地に根を下ろし、ずっと前から「無寧不成市」(寧波人がいなければ、市が立たない)の名誉を与えられた。一方、住み慣れた土地から離れがたい寧波人は心を込めて商売を営むのである。我々は、それぞれ特色のある都市、村落、建築、寺院、庭園、工芸から一つずつの文化符号にいたるまで、「手振五弦、目送帰鴻」(五弦の楽器を弾きながら、鴻鵠の帰りを見送る)という幽玄な境地を味わうことができる。

無形文化遺産は既に我が国の流行語となり、各地で無形文化遺産を選抜するイベントも盛んに行われている。言うまでもなく、寧波にも無形文化遺産が数多く存在している。無形文化遺産を伝承するのは、完全な民族の文化史を築き上げることに役立つのである。厳密に言えば、文化史は社会全体の文化史で、各階層によって創造された文化を全て含むべきである。伝統社会では、民間文化は常に民族文化史に記載されていなかった。民間文化の記憶が残っている無形文化遺産を伝承し、保護するのは、我が国の文化史をより完備させることになる。現在、寧波には四種類の無形文化遺産が国家ランクに入った。すなわち、民間文学類の梁祝物語、舞踊類の奉化布龍、戯曲類の寧海平調、美術品類の朱金漆木彫である。省ランクに入った無形文化遺産は七種類の八項目があり、市ランクに入った無形文化遺産は八種類の二十八項目がある。

文化習俗

寧波は、悠久な文化伝統があり、歴史上にも人材が輩出し、非常に豊富な文物遺跡を持ち、地方の戯曲芸術と大衆の娯楽活動も盛んに行われている。それ故に、寧波は名実共に、国務院から名づけられた歴史文化の名城である。

解放されて以来、寧波の文化事業は、伝統への伝承と発揮を土台にし、大きく発展してきた。特にここ数十年間、経済の著しい発展と共に、市民の教養も高くなるにつれ、数多くの新しい娯楽項目や施設が衰えてきた伝統文化のかわりに繁栄してきた。大衆文化の活動がより隆昌の方へ発展している。

張り龍

張り龍は慈渓市長河鎮墊橋路辺りの特色のある工芸である。

長河の人々は龍灯(龍型の灯籠)を操るのが好きであるが、シンプルなデザインは好みではない。長河鎮墊橋路の龍灯は殆ど精巧で、別格なので、観賞用には高い価値を持っている。張り龍はその一つである。

張り龍は刺繍龍の別称を持ち、龍灯の全体が金と銀で飾られ、様々な文様と花模様の刺繍が施されるのである。龍灯に使われた布が全部刺繍台に張って刺繍されたので、張り龍という名前の出所がここにある。

張り龍は竹で骨組みを作られるのである。職人たちは、殊に龍頭の制作に心血を注ぎ、目?角?口?髭などを全て本物とそっくり見えるように努力する。1944 年、長河では高足踊り?鼓鼎?排夜班?高抬閣?火流星?華龍船と様々な龍灯のイベントが行われた。あの場にいた皆は口を極めて墊橋路の龍灯を賞賛した。当時作られた張り龍はボタンで打ち合わせられ、二人によって順番に挙げられ、徐徐に進行するのである。張り龍の頭が巨大なので、それを挙げるのは、四、五人で交代しなければならないのである。念のため、張り龍の前後には紐を引いてフォローする人が配置されている。

長河で一番有名な張り龍が二つある。一つは頭甲(旗下庵)にあり、巨源里に収蔵されている。もう一つは七甲(分江市)にあり、永泰花行に収蔵されている。張り龍への誇りと崇拝によって、地元の人間が永泰花行の張り龍に宿る神が霊験したこともあると信じている。

寧波刺繍

寧波刺繍は長い歴史を持った伝統工芸品である。ずっと前から、寧波の民間には「家々ござを編み、戸々刺繍す」という伝統がある。明代と清代にわたって、民間には数多くの刺繍職人が出て、刺繍の販売量も次第に増えてきた。寧波刺繍は東南アジアまで販売され、蘇繍?湘繍?蜀繍と妍を競い、それぞれの特色を持っている。

寧波刺繍は独自な地方風格を持っている。寧波刺繍は構図が簡潔で、色彩が鮮やかで、おおかた黒色?灰色?藍色?真紅?黄色?灰緑などのような柔らかな色彩を用いるのである。主な運針法には斜針?扣針?太針?抽糸?朝紗?挟糸?晒毛針?打子針などがあり、最後に金や銀の糸を使う盤繍で飾られる運針法もある。刺繍の模様は殆ど、龍鳳?如意?牡丹?百鳥のような大衆の好みに応じる題材を取材している。それらを使って、刺繍をより一層優雅に、ゴージャスにさせ、古風で、素朴で落ち着いた感じを人々に与える。正に寧波民間ならではの地方風格に富んでいる工芸品である。

寧波刺繍は各色彩のシルクとレーヨンを取り混ぜて造られた錦を原料にして、金や銀の糸で彩られた平繍の模様の周囲に刺繍することもあれば、金や銀の糸でぎっしりと刺繍し、模様の空白を満ちるところもある。融盤金が色繍と一体になって、優雅な装飾の趣に富んでいる。

ここ数年来、寧波刺繍は「工芸品を日用品化し、日用品を工芸品化せよ」の要求に即して、絶えず製品を革新してきた。製品は芸術的な価値を持っていると共に、日用品でもあり、更に旅行記念物、家族へのお土産でもある。趙朴初が寧波を訪問し、職人たちの刺繍の技を見学した時、口を極めて賞賛したであるけでなく、「古今を吟味し、雲や月を裁き切るようで、奇異な草花、奇妙な針」という賛辞まで残した。その賛辞は寧波刺繍の特色を極めて洗練に現れた。ここ数年間、職人たちは伝統工芸を受け継いできたと同時に、国外の先進的な刺繍方法も学びつつ、寧波刺繍をより一層発展させた。1989 年、寧波刺繍の大型の屏風~「百鶴朝陽」は中国工芸美術百花奨の珍品奨を受賞し、中国美術館に収蔵された。

朱金漆木彫

寧波の朱金漆木彫は約1000年あまりの歴史を持っている。漢代と唐代以来、木造建築の発展につれ、彩漆と鍍金が同時に使われた装飾用の木彫が出てきた。759年、唐の高僧鑑真とその弟子によって建立された日本の唐招提寺には、数多くの朱金漆木彫が使われた。その講堂と舎利殿などで使われた朱金鏤彫のスタイルは国内に現存している阿育王寺の木彫とはかなり似ている。

寧波の朱金漆木彫は楠?槿?銀杏などの木材を浮き彫り?立体彫刻?透かし彫りに彫り、その上漆を塗り、金箔を貼り、そして砂金?碾銀?開金などの工芸を加えたので、朱金漆木彫に古風な造形を与えた。朱金漆木彫の彫り方は重厚で、金色と他の色の組み合わせはめでたく、ゴージャスである。朱金漆木彫の取材は殆ど京劇に出る登場人物の服装や姿勢なので、「京班体」と呼ばれることになった。「京班体」の構図は透視法で全ての近景と遠景を同じ画面に彫り、近景が遠景を遮らないので、画面全体が充実で、整然としている。中国の伝統的な絵画における「丈山?尺樹?寸馬?分人」の比例にひきかえ、朱金漆木彫では人や馬のサイズは建築より大きい。木が生える石は山を象徴し、草が生える石は石を象徴し、鳥と雲との組み合わせは空を象徴し、景色は陸地を象徴し、舟は河を象徴しているので、朱金漆木彫はかなり装飾性に富んでいる。例えば、「武士には首なし、美人には肩なし、旦那にはビール腹があり、武士は胸を張る」のような定められた表現手法は、寧波の朱金漆木彫に趣を持たせることになった。

「三分は彫刻にあり、七分は漆にあり」というのは、朱金漆木彫の職人たちの経験でもあり、結論でもある。すなわち、朱金漆木彫の主な特色は彫刻にでなく、漆に反映されている。朱金漆木彫は金箔と漆で飾られるので、彫刻はそれなりに精緻を極めなくてもいいにひきかえ、漆器工に対して、磨き?抉り?彩り?鍍金?描きなどは殊に厳しく要求されている。こういう工芸こそが、朱金漆木彫に豪華で煌いた効果をもたらした。

明と清の時代以降、朱金漆木彫は広汎に民衆の日常生活に用いられるようになった。例えば、日常調度品や仏像や家具の装飾などに用いられ、特に民衆の生活に深くかかわる婚儀のベッドと輿によく用いられた。「千工床」や「万工輿」などのような典型的な朱金漆木彫以外、「迎神?賽会?灯会」の場合に用いられる朱金漆木彫の船?東屋なども絶好な民間工芸品の逸品と言ってもよかろう。

寧波の朱金漆木彫は民間習俗の変遷に従って、我々の生活から姿を消えていく一方である。目下、民間では古風の家具を模作する時に朱金漆木彫が用いられるが、それも次第に衰えていく。寧波の朱金漆木彫は国家無形文化財に登録された。

寧波走書

寧波走書(別名は蓮花文書あるいは犂金へんに華書)は寧波?舟山?台州辺りに流布し、地元の民衆に好かれている。寧波走書はおおよそ同治?光緒の時期に誕生した。

芸人たちの話によると、寧波走書は最初に上虞から伝わってきた。当時、ある雇い人たちが農事中に歌で問答し、自分で自分を楽しませることによって、疲れを取る目的が達成された。そして、歌の内容は通俗的な小歌曲から筋の通した物語に発展し、夏に涼む時や冬の暇な日々に、何人かが穀物を干す所や祠堂に寄り集まり、出演した。また、ある人は節句に限って、出演して小遣いを稼いである。当時はなんらの楽器もあるまいし、ただ二枚の竹板と一つの竹の根しかなかった。それに、リズムも非常に簡単である。光緒年間、このような演出はもう既に余姚の農村に流行ってきた。その後、余姚では、農閑期に戯曲に出演する農民や行商人や職人は、「杭余社」という組織を組み立て、たびたび戯曲の経験を交流し、戯曲の書目を研究していた。その中に許生伝という老人がいた。彼は紹興の「蓮花落」の曲調を学び、初めて月琴を伴奏に用いた人として、一人で月琴を弾きながら歌ったので、当時の大衆の間では大いにもてていた。彼の影響で、数多くの芸人も様々な楽器で伴奏し始めたことにとどまらず、「四光南詞?寧波灘簧?地方俗謡から色々な曲調を摂取し、改造し、応用した。同時に、書目も大いに進歩した。『四香縁』『玉連環』『双珠鳳』『合同紙』『紅袍』『緑袍』などのような長編も出てきた。活動の範囲も次第に寧波?舟山?台州という三つの地域に広まった。

寧波走書の形式は三つの段階に分けられる。初めは一人で楽器を弾きながら歌うという「座唱」の形である。その後、簡単な伴奏が加われ、役者は机の後ろに座り、楽団は机の傍に座っていた。役者が机の後ろに出演したので、動作の幅は比較的に小さくて、「里走書」と呼ばれていた。そして最後の段階、役者と楽団がそれぞれ机の両側に座ることになったので、役者がより大きい舞台を与えられた。それは「外走書」と呼ばれた。当時、鄞西の謝宝初の演技、町内の段徳生の節回し、慈北の毛全福の功夫はそれぞれ優れたし、その名が世間に通り、大衆に巨大な影響を与えた。蓮花文書が「座唱」から立ちながら出演し、役を分けることになったので、役者の動作の幅が大きくなったのは、「走書」という名づけの出所である。建国後、寧波走書は何回の改革と革新をして、演技の方ではもう男女二人のパターンに達し、伴奏も強化された。

寧波走書がよく使われる曲調は、四平調?馬頭調?賦調という三つの曲調である。それらには「老三門」という俗称がある。ところが、還魂調?詞調?二簧?三頓?三五七などもしばしば用いられることがある。「四平調」は普通一つの物語の初めとされ、最後の一句は常に楽団の合唱になる。「賦調」は物語の内容や人物の性格によって、緊?中?慢に区分された。例えば、「慢賦調」のリズムは緩慢で、曲調も主に下行で、哀れな叙述や思い出に用いられる。芸人たちの話によると、「馬頭調」は蒙古の曲調から転化してきたそうである。「三頓」のリズムは比較的に速い、旋律も激しいので、主に人物の高まった気持ちや切迫な状況に用いられている。走書を伴奏する楽器といったら四弦の胡琴は不可欠なものである。これも寧波走書の一つの特徴である。他の楽器、例えば、二胡、月琴、揚琴、琵琶、三弦も用いられる。

寧波走書の主な伝統書目には『白鶴図』『黄金印』『四香縁』『十美図』『玉連環』『何文秀』『胡必松』『双珠球』『三門街』『大紅袍』『緑袍』『真珠塔』『麒麟豹』『玉獅子』『天宝図』『文武香球』『包公案』『狄青平西』『紫金鞭』『小五虎平南』『薛仁貴征東』『薛仁貴征西』『乾坤印』『薛鋼反唐』『金魚鉢』『穿金線』『盤竜腕輪』『緑牡丹』などがある。寧波走書が国家無形文化財に登録された。

甬劇

甬劇は浙江省の主な地方劇で、浙江省の東部の農村から発祥し、寧波?舟山?台州及び上海の辺りに広く流布している。明末清初の時期、寧波の農民が「田頭山歌」を歌い、演芸のニュースもあった。当時は純粋に農民や職人たちが労働中と労働後で、アマチュアとして自分を楽しませるに過ぎなかった。雰囲気を盛り上げるために、夏の涼む時や結婚式の時に呼ばれたので、「串客」と呼ばれていた。乾隆?嘉慶の時期、「串客」によって構成された短期の演出班が出てきた。いわゆるプロの「串客班」である。甬劇は内容が民間説話やニュースの類で、形も次第に「座唱」や「清唱」から伴奏のある戯曲に変更し、初めて登場人物のキャラクターや劇の筋や演技のアクションなどが形成され、独自なスタイルを持つことになった。「蘇灘」の転入によると、「串客」の芸人たちは徐徐に灘簧の曲調を学び始めた。光緒十六年(1890 年)、鄔撮来らの芸人が上海で出演し、成功を収めた。その後、「串客」は「寧波蘇灘」に改名され、有る時期は「四明文戯」と呼ばれたこともあるが、1950年は正式に「甬劇」と命名された。

甬劇は寧波の地方劇として、独特な芸術の魅力と鮮明な地方特色を持っている。台詞は寧波の訛りで、曲調は地元の民謡の曲調である。普段使われている曲調には「基本調」「四明南詞」「二五」「小唄」である。伝統的な劇目は『打窓楼』『庵堂相合』『双玉蝉』『半分の鋏』『天から雨が降り、継母が再び嫁に行く』などがある。

蛟川走書

蛟川走書は寧波地方戯曲の中でも最も通俗な、独特な戯曲である。年配の芸人の話によると、蛟川走書という名前の由来を溯れば、光緒年間、鎮海県の小南門に住んでいた謝阿樹(別名は謝元洪)という蛟川走書の芸人が住んでいた付近にアーチがあり、そのアーチに「蛟川」という文字が刻まれていたからだそうである。彼は芸人たちに蛟川走書の創始者とされている。しかし、彼の師匠に関する手がかりはもう何処にもいないのである。

早期の蛟川走書の出演者は一人しかいなっかたし、楽器の伴奏もなかったし、後ろに和唱もなかった。芸人たちは二個の杯と一本の箸だけでリズムに合わせて打ちながら、歌うのである。日中戦争の直前には、もう既に「一唱一和」(一人が歌い、もう一人が相槌を打つこと)の形になり、寺院や穀物を干す所や祠堂(先祖の魂を供養する所)に板を使って小さな舞台を作り、出演者は静木?扇?ハンカチなどの道具を使い始め、伴奏も竹の板や竹の太鼓でちゃんと行われ、落調の時にも清口で「エエリア……」との基本調を歌うことになった。日中戦争が終わる直前、二胡や揚琴も伴奏に用いられることになった。日中戦争が終わった後、蛟川走書は数多くの形に変更し、琵琶?三弦?簫?笛などの色々な楽器も伴奏に用いられることになった。

蛟川走書の曲調は30種あまりあリ、普段使われているのは20種あまりある。例えば、小起板、基本調(蛟川本調)、賦調、抗調、詞調、平湖、一字沙袋、五彩沙袋、娃娃調、乱台、哭調、水底反、正平湖、三頓、清糸二簧、流水、一根藤、五更調、武林調、急板などがある。落調する時の和音がいまだに残されている。

蛟川走書は演義小説のような長編を歌うことが多い。蛟川走書の伝統書目には『前漢』『後漢』『隋唐』『反唐』『飛龍伝』『大明英烈伝』『楊家将』『紫金鞭』『包公案』『七侠五義』『広碧縁』『平陽伝』『天宝図』『白鶴図』『粉粧楼』『乾坤印』『麒麟豹』『紅袍』『双珠球』などがある。主な現代書目には『敵後の武工隊』『野火春風に古城を攻める』『黒鳳』がある。

昔の蛟川走書の芸人は殆ど農繁期に耕作し、農閑期に出演していたのである。蛟川走書で生計を立てる芸人は極一部しかいなかった。解放の前、プロの数は少なかったが、謝阿樹、胡紀福、費仁金、朱阿根、陸尭林、楽祖賡のような芸人は、ずっと前から鎮海?鄞州?舟州の辺りに有名人となり、その中には歌唱とアクションの両方ともに優れた謝阿樹、生まれつきの素晴しい音色を持っていた朱阿根、それに「馬鳴鶏叫」という物まねが得意の陸尭林は一番名高い芸人である。

四明南詞

四明南詞は弾詞に属し、俗に「寧波文書」ともいう。語句が華麗で、メロディーが優雅であるから、四明南詞は士大夫たちに好まれるが、普通、講談所、喫茶店には受け入れていない。誕生日パーティー、祝い事の宴会で歌うことが多い。

年配の芸人によると、清代の皇帝乾隆は江南を巡視した頃、寧波に来たことがあり、白衣寺章状元の家に泊まったこともあるという。彼は寧波文書を聞いた後、褒めそやして「これは詞で、文書と呼ぶわけはない」と言った。それで、寧波文書は四明南詞に改称されたもう一つの伝説によると、乾隆は首都に帰る時、一組の南詞芸人を紫禁城へ連れて、彼らに四明南詞を歌わせ、自分もこれを学んだという。これらの伝説は年配の芸人たちの間にかなり流行っているが、寧波誌には記録されていない。四明南詞は実証できる時間が約三百年以上ある。

明末清初、ある意気投合の文人らが集まって稽古するため、「詩詞歌賦社」と「糸竹社」を組織し、南詞のメロディー、番組について研究した。道光の間、南詞は繁栄していた。寧波城新街の一帯に「崇徳社」、「引鳳軒」等の組織があり、それに郊外、鎮海、奉化あたりに南詞を歌う芸人を加えて、約280余人になった。その後衰えてきた。解放直前に至って、20 数人しか残らなかった。その中、わりと有名なのは滕雲清、陳世卿、戴善宝、陳金恩、何貴章、柴炳章、陳蓮卿等である。鎮海蛟川走書の役者湯鑫森と高礼剛の父も南詞を歌っていた。それで、蛟川走書の中に南詞のメロディーが多くしみ込んでいる。著名な甬劇芸人の徐鳳仙、金玉蘭も南詞を学んであることがある。

芸人団体の多くは旧暦の6月10日、11月11日に集会を開き、大広間の中で伏羲、軒轅、文王、武王、周公、孔子、唐明皇、李白、李亀年の九人の像を掛け、線香をあげて奉る。彼らは唐代の楽師雷海青をも崇拝していた。雷海青は盲人で、安史の乱で安禄山の捕虜になったという。彼は琵琶をもって、安禄山を叱責した。最後、琵琶を安禄山に打ちつけた。芸人は彼の気骨に感服されたという。

四明南詞の出演形式は唱、奏、念、白、表を交互にすることである。歌手の主役は「一白、二唱、三弦子」という熟達した技量を持たなければならない。南詞に常に使われたメロディーは詞調、賦調、緊賦、平湖、緊平湖で、俗に「五柱頭」と称する。その調と調式の転換も多く、板腔の変化もある。四明南詞はメロディーがしとやかで優雅で、節まわしがほとんど七字の句である。間隔をおいて字をあててなめらかで耳に心地よいものもあれば、起板、間奏、尾の奏などの器楽の段落を多く用いるものもある。班社の芸術レベルを示す、現場を静かにするため、開演以前あるいは休憩の後に必ずこれらの器楽段落を一曲演奏する。用いられた曲はほとんど江南の管弦音楽で、例えば「四合如意」、「得勝令」、「三六」等、最も特色を持つのは四明南詞の「将軍令」(「文将軍」とも称する)である。主要な楽器は簫、笙、洋琴、胡弓、琵琶、小三弦等である。演奏する時、芸人たちは自分の楽器の特質によって、主要なメロディーをめぐって、自由に発揮し、互いに照り映え、復調を形成する。少より多を勝って、音楽は非常に優雅である。中国の内外に中国民間音楽を研究する専門家の多くはこれを高く評価した。

四明南詞の出演に単档(歌いながら、三弦を弾く)、両档(歌の主役は三弦を弾き、それに洋琴を加えて)、三档(以上の上に、琵琶を加えて)、五档(更に胡弓、風簫を加えて)、七档(更に拉弦と双清を加えて)、十一档(更に筝、拍子木を加えて)、十三档(更に月琴あるいは管を加えて)がある。しかし、時には伴奏の人員によって段取りに柔軟性を持たせることがある。

四明南詞の主要な図書目録には「真珠の塔」、「玉のトンボ」、「白蛇伝」、「双珠球」、「十美図」、「盤龍の腕輪」、「雨雪亭」、「果報録」、「双珠風」、「西廂記」、「四法縁」等がある。

四明南詞の多くのメロディーは甬劇と寧波走書と蛟川走書等に吸収して融合された。

寧海平調

「寧海平調~耍牙」(牙遊び)は清代の末に寧海芸人が独創した特別な技芸である。「寧海平調の歴史」によると、「耍牙」は現在まで百年以上の歴史を持っている。それは豪放でありながら細やかで、野性の中にすばしっこさを示している「口を変える」芸事である。「小金銭」(後に「金蓮は蛟を切る」に改編された)は寧海平調の代表作で、百年来「耍牙」の技芸と結びつけ、寧海の土に根を深く下ろした。

寧海平調は浙江省の伝統的な地方劇だけでなく、浙江省の高腔体系の一つの重要な流派でもある。浙江省寧海の方言で演唱し、それに演唱する高腔のメロディーがほとんど穏やかなため、「寧海平調」と呼ばれている。それはほぼ明代の末と清代の初に形成され、三?四百年の歴史を持っている。その芸人の多くが寧海の人であるから、「寧海当地班」とも呼ばれている。

「耍牙」の材料は二百キロ以上の雄の食用豚の下あごの骨にむき出した牙である。各代の後継者は皆天分によって、1~3 年間の艱難辛苦な練習を経験しなければならない。その間に、口腔が赤くはれるようになり、舌がしびれるようになり、頭がぼうっとして目がかすむようになり、食欲不振になることがあるかもしれない。ひどい場合は、口腔の中に潰瘍が深刻化し、皮がむけた後たこもできる。それこそ「舞台上の一分間、十年の稽古」ということである。「耍牙」の「口を変える」技芸は気楽なように見えるが、実はひたむきな努力が必要である。後継者は牙を口に含んで、舌を主要な動力として、歯、唇、息を補助的な動力にする。その手順は第一が咬み、第二がなめ、第三が飲み込み、第四が吐き出した。変化の多い動作は独角竜の野性の中にすばしっこさを示す美を浮き彫りにする。「寧海平調~耍牙」は卓越した「口を変える」技芸によって、観衆の目を引く。平調「三大一小」と「将軍令」等のメロディーと組み合わせて、奔放な姿で見えを切って、独角竜のうぬぼれる姿を描き出す。出演の全体は流暢で、それで「耍牙」の技芸は錦に花を添えるように、ちょうどいいところに至る。

「寧海平調~耍牙」は地域性が強く、スタイルを重んずる。現在まで国内に類似の「耍牙」の報道はない。建国以後、「耍牙」は伝統に基づいて改良されてその芸は高まった。もとの六本牙遊びから十本牙遊びに発展した。浙江省内と省外の観衆に好評を得た。杭州の公演に浙江紹劇の著名な俳優六齢童と七齢童は平調芸人に「耍牙」の技芸の教えを請ったことがある。何度も全国と省と市のコンクールに参加した。浙江省少数劇コンクールの出演一等賞、第五回中国「ツツジ」民間戯曲節の出演一等賞、中国(杭州)「城隍閣杯」民間戯曲折子戯招待試合の金賞などを受賞したことがある。国内各級メディアが次々と報道した。中央テレビ局は出演団体の役者たちを四台の番組「歓聚一堂」に招いたことがある。その後、中央テレビ第一チャンネルはまたそれを特別報道した。各級新聞刊行物も絶えずにこの特別な技芸を報道し、「東方の絶技」と褒めた。

奉化の布竜

奉化の布竜は奉化で起源当時にその名前がつけられた。中国で知られている代表的な竜舞の一つで、現在までもう800年以上の歴史を持っていると言われる。神を敬って楽しませることから徐々に発展してきたものである。奉化の布竜は割り竹で骨組みを作成し、布で竜の表と腹を作ったゆえ、その名を得た。

奉化の布竜は長さが9節から27節に至る。一人ずつ一節を持つ。それゆえ出演は場所に限らない。その踊り姿は変化が多い。ぐるぐる回り、転げ回り、泳ぎ、うらがえし、跳び上がり、戯れなど 40セット以上の動作と小游竜、大游竜、竜鉆尾の三つの過渡動作がある。舞踏動作には竜をぐるぐる回ること、竜が体をつかむこと等多くの飛び跳ねる動作と地上に横にして転げ回ること等の技巧がある。

奉化の布竜は主に形、舞、曲の三つの部分に分ける。「形」、色づきの布を主要な材料として、竹、木材などの補助材料を使って、本物の竜のように立派な布竜を作成する。竜の舞い手はぐるぐる回り、うらがえし、伸ばし、跳び上がり等の全身的な動作をして竜の諸般の姿と気概を表現する。「曲」は各種の感情を表現する音楽を採用して各種の雰囲気を表し出す。機敏さ、舞いの丸さ、生き生きした様子、動作のセットの多さ、スピードの速さは奉化の布竜舞の主要な芸術的な特徴である。竜の舞い手は動作が力強くたくましく、踊り姿の変化が多く、技が熟達している。全部の舞踏動作は竜の動き回る間にする。「形が変わっても竜が止まらなく、竜が動くと動作が出る」、「人がきつくなれば竜も丸くなり、竜が飛ぶと人も舞うようになる」ということができる。造りが生き生きとしている。転換が巧妙である。動作と動作との間のつながりがぴったりとくっついている。そのうえ、竜が軽くて、舞ったら速いから、竜の輪が一つずつ互いに繋がり、竜の体がぴったりと巻きついている。

数年来、奉化の布竜は何度も全国と省内外の試合で受賞した。1955 年は、北京へ全国百姓アマチュア音楽舞踏コンクールに参加して、優秀出演賞を獲得した。その後、中国青年芸術団がこの番組をもって第五回の世界青年交歓会に参加して、銅賞を獲得した。1988 年は、国際観光の年全国舞竜大会に参加して、光栄に銀賞を獲得した。1977 年全国舞竜芸術節に参加して最善賞と「玉璽の杯」賞を獲得した。同年の九月、全国万里長廊現場会の試合に参加して金賞を獲得した。1999 は、北京天安門広場で「マカオが祖国への回帰を迎える舞竜試合」に参加して銀賞を獲得した。2004 は第七回の中国芸術節開会式大型文芸夕べ「風は東海から吹き込む」の優勝な番組を選考する活動の中で金賞を獲得した。

奉化は文化部に「中国民芸(布竜)の故郷」と命名された。奉化布竜は国家無形文化財に登録された。

寧海の杯持ち踊り

杯持ち舞は寧海県岔路区と一市区等の地域に伝わっていて、長い歴史を持った優雅で独特な結婚式踊りである。

杯持ち踊りは青年女子が出演し、その風格が濃厚な郷土の息と著しい民族特色を持っている。舞踏動作は幅がほとんど些細で、細やかに感情を描写することに優れる。簡単に見えるが、実は難しい。おっとして上品なこと、穏やかで力強いこと、東方の女子の含みを持つ内向的な気性を強調することが要求されている。

杯持ち舞の出演の標準は体が穏やかであること、歩みが均等であること、手が平らであることである。それに杯の酒が満ちているが溢れないことを要求する。歩みを移しても、おちょこをささげ持っても、酒が零れて落ちない。そして、そのように保持する時間が長ければ長いほどよい。出演が素晴らしければ、その娘は名声が一気に高まる。自分と家族が光栄に感じるだけでなく、その娘は常に招かれて結婚式に出演するチャンスがある。

杯持ち舞は主に「会見」、「酒を持ち上げ」、「美しい歩み」の三つの舞踏格式で構成される。一番難しいのは皆の注目の下に杯の酒が満ちているが零れないまま、自由自在に自分の物腰と踊り姿を表現することである。杯持ち舞の出現は当地の結婚を重視する風俗に関係がある。「寧海県誌」にそれに対する明確な記載がある。

杯持ち舞のメロディーは元代から伝わってきたものである。出演の格式はほとんど結婚式で互いに模倣して密かに練習してマスターする。花嫁の介添人になる直前の何日に母親に教えてもらうこともある。杯持ち舞は簡単で面白くて、現地の民衆に好まれている。

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