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第9章 明州人物

唐?宋代以来、寧波(明州)は浙江省東部の政治、経済、思想文化の中心の一つとなった。寧波は中国の重要な対外貿易港として、宋?元代には海外貿易が非常に盛んであった。

寧波人は商売が得意ばかりでなく、学問においても優勢をよく示している。ここに人材がそろっていて、空の星のように散らばり、政治家、思想家、光学家、文学家などといった名家が大量に現れた。唐代初期の書道家虞世南、北宋慶歴年間の明州五先生、南宋孝宗時期の宰相史浩、淳熙甬上の四先生、宋代末期の王応麟、黄震、元代の文学家戴表元、張可久、それから明代の方孝孺、王守仁、範钦、清代の朱舜水、黄宗羲、沈先文、张煌言、万斯同、全祖望などが数えられ、彼らは中華民族の発展史において輝かしい一部を残した。

7000 年の文明史を持っている寧波は、その文化の歴史が長くて、従来「文献の邦」という美称も有している。現在になって、我々はちょっとぐらいあの塵埃に封じられた歴史から寧波の文化の中身を探ってみても、すぐに、この寧波という土地にはこれほど大勢の著名な思想家、哲学家、文学家、書道家、科学家たちが生まれたこと、そして彼らは長い歴史において、十分に中国文化の発展を代表できる偽りのない足跡を残してくれたということが明らかに分った。官途についた人であれ、田舎に落ちぶれた人であれ、彼らの名前はすでに歴史の中に凝固され、彼らの思想や行跡は後世の寧波人に対する貴重な精神的な宝物と成すものである。

虞世南

虞世南、字は伯施という。越州(今浙江省)余姚の出身で、享年は81歳(南朝陳武帝2年[558年]~唐太宗貞観12年[638年])である。少年時代に顧野王のもとで学び、10 年続き向学心が強く、詩文に長じていて世で有名である。

虞世南は南朝の陳(陳武帝)、ついで隋の二つの朝代に仕えたのち、唐に帰した。唐に入ると弘文館の学士に任じられ、秘書監にまで昇りつめ、貞観7年に永興県の県公に封せられた(それ故「虞永興」とも呼ばれる)。彼は太宗にかなり尊敬されていて、死後、儀部尚書に賜られた。功臣24人のうちの一人として、描かせた像が凌煙閣に遺された。唐太宗は「世南ただ一人に、群を抜いた文才あり、五絶(徳行、忠直、博文、文辞、書翰)を備えている。」と仰せられ、彼を称揚した。

虞世南は幼少の時、王羲之の第七世孫とする有名な書道家の智永禅師について書法を学んだ。智永本人よりの伝授を受け、「二王」と智永の筆法の意を巧みに得た故、其の書は、豊かな風韻のほか、「外柔内剛」と言われたように内に剛柔を蔵していて、融通無碍にした力がこもっている。評価によれば、それは、スカートの帯のようにひらひらとしているが、行動するとすぐその身に束ねられ、見たら犯すことができないと分かる。智永の指導を得た其の書法は、「二王」の正統に根ざして、絶好な効果が現れた。書道においては、魏晋の端緒を受け継ぎ、盛唐の佳作を開いたと言っても過言ではない。彼は鴎陽詢、褚遂良、薛稷号とともに、初唐の四大家と称された。虞世南は冷静で寡欲で、性質は剛直で気概を尊ぶ。彼の人柄と博識を見込んである太宗に非常に重用されている。

虞世南は字を書くのが紙や筆の良さ悪さによるものだと考えなかったが、その座りと立ちの姿勢を非常に重視していた。彼の理念では、姿勢そのものがきちんとしていて、腕の運力が巧みに支配できる以上、たとえどんなに粗末な紙や毛さえない筆であっても、手当たり次第持って来ると、必ず自由に揮毫でき、またそこに属する新奇な意味もおのずから出てくるという。

伝説によると、唐太宗がかつて、虞世南を呼んで来て、「近頃、朕がこの大明宮の巨幅の屏風をぱっと一新に飾り直させた。あなたは才気に富み、思惟が敏捷であろう。はやく105名の烈女の小伝を楷書で屏風の上に書いてくれ。」と仰せられ、稿本を出してこれらの烈女の事柄を次々と彼に紹介した。それで、皇帝の意図が分かり、大明宮に来た虞世南は、驚くべき記憶のみによって書き始めた。揮毫しながらもまた構想を進めている。顔と屏風の平行を保証するため、彼は腰掛を敷いて上がったり、それを捨ててしゃがんだりしていたが、筆法は自然にして熟達で、姿態は穏健であった。ただ一日と一晩の時間で全部できあがった。屏風を書き終わった虞世南は、くたびれた気なく、そして、細かく校閲した結果、一字の間違いもなくて、一箇所も書き直すところもなかったとのことであった。

その作品は元代において、すでに珍しくなった。今見られるのは後世の臨本のほか、伝えられてきた書跡や石刻は、楷書の「孔子廟堂碑」、「破邪論」や、行書の「汝南公主墓誌銘」、「摹蘭亭序」などが挙げられる。「唐人摹蘭亭序三種」の中の一つは虞世南の墨跡と言い伝えられる。

朱舜水

清代の浙東学派は朱舜水をその鼻祖と見なされる。著書の『明夷待訪録』は世界中において一番最初の民主啓蒙主義についての大著と思われている。康有為、梁啓超の変法や辛亥革命などといった重大な進歩的政治変革は、直接彼によって大きく影響を受けていないのはないと言える。朱舜水は抗清に敗れ、日本へ移住後、日本における発展と変革に与える影響は、どんなに高い評価を下しても行き過ぎることはない。日本では、水戸藩主の徳川光圀を始め、国を挙げて褒め称えるのである。それは今日までに続いている。

王陽明

明の時代に、余姚に王陽明という名人が出られた。彼は哲学家、教育者であるほかに、戦争や軍略に長じている大将でもある。余姚の「四碑亭」に彼を記念するための碑亭が残されている。碑文には「明代先賢王陽明の故郷」と刻んである。「曾将大学垂名教、尚有高楼掲瑞云」という対聯、「真三不朽」という横額がある。

王守仁(1472~1529)、字は安伯、号は陽明という。世の中に「陽明先生」と呼ばれ、余姚の出身である。父の王華は、明の成化17年(1481年)に科挙を首席の状元で、合格した。王守仁は父とともに紹興に移住し、また北京へも行ったことがある。

王守仁は中国の宋と明の時代において、主観唯心主義の各説の長所を集めた者である。彼は陸九淵の学説を継承し発展させ、程朱学派に対する思弁を起こした。彼は「善無く悪無きは是れ心の体なり、善有り悪有るは是れ意の動なり、善を知り悪を知るは是れ良知なり、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と唱え、これを学問を研究する際の宗旨としていた。彼はまた「万事万物の理は、吾心の外ならんや」、「心明、即ち天理」と断言するように、「心外物なく、心外事なく、心外理なし」という論説を明らかにした。

学問することにおいては、「学は心に得るのを貴ぶ」、つまり学んであることを心で会得する、これが大事なことであると説いた。「心というと、植物に例えて言うとその根で、学ぶことは、その植物を培擁したり、灌漑したり、なお育成したりすることのように、すべてその根、つまり心に働いているのである。」と論じた。それで、このように、振りかえして内心まで求めるという修養の方法を持ち、所謂「万物一体」の境界に達しようと提唱していた。彼の「知行合一」と「知行並進」の説は程頤といった宋代儒学者の出した「知」は先にあって「行」が後になるという「知先行後」の従来の教え、また「知」と「行」とのつながりを割れた言い方などへの反措定である。

王守仁は児童の教育に力を入れて、鞭で打ち縄で縛り、まるで囚人のように児童を扱うのを批判した後で、「何よりも自発的なやる気を引き出すことが肝心で、内心より喜びを出させよう」、それで、「自然的に成長することにともない、理想の状態に近づくことも期待できる」と唱えた。

王守仁の学説は「反伝統」という姿で現れた。明代中期以降、「陽明学派」が形成されてきたが、その影響力は極めて大きい。彼は至るところにおいて門徒を受け入れた。死後、「王学」はいくつかの流派に分かれてきたが、その正統は同じである。しかも、それらの流派はどれにおいても長所が挙げられる。彼の哲学思想は遥かに海外まで伝播され、そのうち、特に日本の学術界に大きな影響を与えた。

黄宗羲

寧波市余姚の龍泉山の中腹に四つの石碑亭があり、それは四位の先賢のために建造した。中の一つの碑の碑文に「明遺献黄梨洲故里」と刻んだ。そこの対聯には、「孝子忠臣、千秋列東廡に祀典し」、「儒林道学史家特南雷に筆著し」と書いてあり、横額は「名邦遺献」である。これは明代末期の黄宗羲のために立てたのである。

黄宗羲(1610~1695)は字は太沖、号は南雷という。学者からは梨洲先生と称される。寧波市余姚明偉郷黄竹浦の出身である。父の黄尊素は「東林」の名士として知られ、魏忠賢の弾圧を受け獄死した。黄宗羲は父の遺命に従い劉宗周に師事していた。19 歳になって、都へ無罪?冤罪を訴訟に赴き、そこで鉄錐で仇敵を痛め殺した。彼は「復社」の成員を指導して、宦官や権力者に反対する抵抗を引き継き、何度も残害されたことがある。清が南下して侵入してくると、彼は義勇兵を募集し「世忠営」を結成して、武装抵抗を行い、魯王から「左副都御史」に任じられた。明が滅亡した後に故郷に隠棲して学術的著述に没頭、清の朝廷よりの徴用をしばしば辞した。孫奇逢、李顒とともに「三大儒」と称されている。その学問は極めて該博で、天文学?算術?音楽?律令?経典?史学?道の釈明などの各分野に対する研究において至らないところはなかった。史学上の成就はことに大きい。著した『明夷待訪録』は、浙江省東部の史学における研究の気風を開いた。哲学の上で、朱子儒学の「理は気の先あり」という説を反対し、「理」は実体でなく、「気」の中の条理と秩序という存在であると論じた。一方、「気質人心は渾然と一体をなし、公共的な物である」と指摘し、また「天地に充満しているのは心のみ」と説き、有神論に傾いていた。彼は、「致良知」の「致」を「行い」の「行」と一同にしておき、「測度、想像であるけで物事を論じる空疎な学問」には否定的で、「知識の上で身代を成り立つ、良知とする。」と提唱した。それに、君主の「天下の産業を私有にして占める」という罪状をあばき出し、「天下の最大の障害は君主であろう」という結論を明らかにした。そして、「天下は治世であるか乱世であるかは、一氏の興亡と関係なく、万民の憂いや喜びそのものにつながっている。」と唱えた。彼は土地、賦税制度を改革するのを主張し、「農業は本なり、工業と商業は末なり」という伝統を反対し、「工業と商業も本なる」と強調してきた。彼のこのような政治歴史観は当時においてかなり進歩的であった。文学の面において、現実を映した詩文のほうがいい、本心に即しなければならない。著作を見ていくと、『宋元学案』、『明儒学案』、『明夷待訪録』、『南雷文集』などが数えられる。

黄宗羲は1668年に、寧波へ万泰、陳同亮、陳夔献といった寧波の学者の誘いを受けて来て、白雲荘の「証人書院」で学術の講演を進めた。この間に、彼はまた範欽の曾孫である範友仲に助けてもらい、範氏の「鎖閣」を必ず厳格に執行するという族規を突き破り、「天一閣」で読書した初めての親族以外の人であった。蔵書を全部読み通したばかりでなく、黄宗羲は『天一閣書目』を編纂して、『天一閣蔵書記』という本も書きあがった。

浙東史学の鼻祖として、黄宗羲が学問を研究する際の要点は儒家の経典や「理」を強調しすぎるという理学の枠などから抜け出し、「六経」を本にして、歴史に対する配慮も加えるようにするということである。すると経典にも史実にも貫通でき、過去と現在を自由に行き来して、学問は現実のために用いなければならない。これは史学の研究において新たな境目を開いた。

全祖望

全祖望(1705~1755)、字は紹農、また榭山ともいう。寧波の出身で、後世では「榭山先生」と尊称されている。

全祖望は学術においては黄宗羲を推賞し、史学上は万斯同よりの影響を受けていた。10年にわたり、黄宗羲の『南雷黄氏?宋元儒学案』の追補を行い、完成し、七回も『水経注』と『困書記聞三箋』を校注したことがあり、また『甬上耆旧詩』という本のために詩文を選び出し、編纂に加えることも続けてやった。著書を見ていくと、『漢書地理志稽疑』、『古今通史年表』、『経史問答』、『勾余土音』、『丙辰公東徴士小禄』、『鮭琦亭集』などがあり、中国文化宝庫に珍しい文化財をもう一筆添えた。「応酬の文字なら、十に九割は棚あげにして手をつけずにほうっておく」と説いたように、全祖望は生涯応酬用の文を作ることを好まなかった。彼の碑で書いた伝記は常に伝えられた話や逸事などを広く尋ね、そして細かく考証することによって、その正確性や信頼性を求める。また叙事は明晰にしていて文字の表現は精神で流暢に富んでいた。それ故、彼の伝記碑文は従来高い誉れを受け、文学においての価値も相当高い。

全祖望は気概を尊び、義士、学者には十分信服されていた。『鮭琦亭集』の一書に、彼は江南地域で清兵の南下して侵入したことで殉難した烈士達、例えば、史可法、張蒼水(煌言)、銭粛楽、王栩、華夏、施邦珍、魏耕、董志寧、朱永祜、夏子龍、周立懋など、またその辺りに清代初期の有名な学者である顧炎武、黄宗羲、李顧、黄宗炎、邵以貫、李鄴嗣、姜宸英、方苞、李紱、傅山、姚際恒、劉献廷などのためにそれぞれ伝記を成立することに努めた。これも中国史学の宝庫に貴重なデータを増やした。

蒋介石

蒋介石は中国国民党執政時期に、党、政、軍においての主要なリーダーで、名は中正で、字は介石、学名は志清。1887年10月31日に浙江省の奉化に生まれた。

1907年、保定の陸軍速成学堂で教育を受け、翌年日本へ留学して東京の振武学校で軍事について習った。同年、同盟会に加入した。武昌一揆が爆発した後、帰国して、滬(上海)軍の都督である陳其美の下に投じて団長に任命された。1918年前後して、閩(福建省)を援助する粤(広東省)軍の総司令部作戦科の主任と粤軍第二支隊の司令官に任じた。1922年6月、陳炯明が部下を率いて革命を裏切ったことで、孫文は「永豊艦」で避難することになった。その際蒋介石は随行して仕え、孫文の信頼を得、重視されるようになった。1923 年前後して、孫文は蒋介石を陸軍と海軍大将軍大本営の参謀長と行営参謀長に任じ、8月になってソ連へ軍事事情を考察に行かせた。1924年、国民党と共産党の間の提携が始まった後、黄埔軍官学校の校長と粤軍総司令部の参謀長に就任した。1925年2月に陳炯明への最初の討伐を開始し、8月には国民革命軍第一軍の軍長に選ばれ、9月は第二回討伐の総指揮者として、残された陳炯明の勢力を殲滅した。1926年3月に「中山艦事件」を作り、5月に「党務案を整理しよう」と提起して中国共産党を攻撃し弾圧した。その後軍事委員会の主席、国民党中央党部軍人部の部長などの職についた。

1926年7月、国民革命軍が誓いを立てて北伐を開始し、蒋介石は総司令官であった。国民革命軍は労働者や農民達の協力を受け、北洋軍閥の呉佩孚、孫伝芳を打ち破って、湘、鄂、贛、閩の四つの省を取り戻した。続いて豫、皖、蘇、浙に向かって進軍した。12 月に、国民党の中央党部と国民政府は広州から武漢へ移されたが、蒋介石は南昌への移転に固執し、直接情勢を支配しようと思っていた。1927年3月、国民党第二回三中全会で「党の指導機関を統一する決議案」など、党権を引き上げ、個人的な独裁を防ぐような一連の決議が採択され、蒋介石の中央常務委員会主席や軍人としての部長などの職を取り消した。そこで、蒋介石は1927年4月12日に上海で「四?一二」政変を起こし、共産党員や革命民衆を残酷に屠殺した。また各地での「清党」により、第一度の国共提携を破壊した。4月18日に、蒋介石は南京で別に「国民政府」を成立させ武漢の国民政府と対峙するようになった。その年の12月1日に宋美齢と結婚した。その婚姻で宋子文、孔祥熙との関係を結びつけ、彼らを通してアメリカとの連携を強化した。1928 年、国民党政府の主席、軍事委員会主席に任じた。第一集団軍総司令官も兼任した彼は第一集団軍と馮玉祥、閻錫山、李宗仁の、それぞれ第二、第三、第四集団軍を指揮して奉軍に対して作戦した。12月に、東北の張学良は「易幟」(青天白日旗を掲げる)を行い、国民政府への服属を表明した。1929 年、蒋介石は「軍縮」を名目として、組み合わせの会議を開き、ほかの各派の軍隊を削ろうとしていたが、馮、閻、李たちの強い不満を招いた故、蒋系と桂系の戦争や蒋系、閻系、馮系の間の大戦が次々と起こったが、蒋介石は帝国主義と浙江財閥の支持を得、各派との争いに勝った。彼はまた汪精衛、胡漢民、孫科などの派閥の対抗も打ち負かして、したがって自分の独裁統治を一層強固にした。

1931年の「九?一八」事変の後、「抗日戦より反共を優先する」という政策を行い、中国工農紅軍やその農村革命根拠地に対して何回も殲滅戦を繰り広げた。1936年12月、張学良と楊虎成による西安事件が起こり、蒋介石は抗日を強いられた。中国共産党の代表団が会談に参加した結果、蒋介石がやむ得ず「連共抗日」という条件を引き受けた。抗日戦争の期間で、蒋介石が引率する中国の軍隊が前後して淞滬、忻口、南京、徐州、武漢、長沙、南昌などの地域で戦いを展開し、日本軍隊の狂ったような攻撃を有効に阻んできたが、蒋介石は一方的な抗日戦争路線や単なる防禦に傾いた戦略方針を実行した結果、中国の国土の広い一部はやはり次々に日軍に占領されることになってしまった。ことに武漢も陥落した後、蒋介石は三回も反共の風潮を起こして、抗日の力がかなり弱体化された。1941年12月太平洋戦争が爆発された。翌42年に、蒋介石は同盟国によって中国戦場における最高統領に推挙され、直ちにミャンマーに駐在していた英軍の願いに応じて、遠征軍を派遣してミャンマーにいる英、米の同盟軍と肩を並べて対日作戦を進めるようになった。

日本が敗戦して降参した後、蒋介石は帝国主義米国の支持によって「国民党と共産党との停戦協定」をぶち壊した。160万という正規軍の兵力が集められ、1946年6月に解放区への全般的な攻撃を始めたが、人民解放軍の有力な反撃に遭い、初めの八ヶ月間で72万人が殲滅された。1947年3月、兵力を集中させ解放区の東と西の両翼である陝西省北部、山東に向かって実施した重点攻撃もまもなく粉砕される結果となった。7月になって、解放軍は防禦から攻撃に出て、蒋介石はやむを得ず1948年1月と8月に、分区防禦と重点防禦の戦略方針を講じた。1948年9月から、国民党の主力は解放軍の引き続いて起こした「遼沈戦役」、「淮海戦役」、「平津戦役」で殲滅されてしまった。それによって、蒋介石は1949年1月に「引退」を発表したが、かげで操るという形で指揮を行った。彼は国民党と共産党の代表の交渉により議定された「国内平和協定」を受け入れようとしなかった。解放軍は勝利の勢いに乗じて前進し、国民党の大陸での反動統治を覆した。蒋介石は12月に台湾省へ敗退させられた。1950年3月に台湾で復職して再び「大統領」に任じることになった。その後彼は四度にわたって居座り、また再選されて国民党の総裁に重任された。彼は「デモクラシーで台湾を建設」、「反共複国」などをもって呼びかけ、台湾での統治を維持していた。アメリカと「共同防禦条約」を締結したが、「台湾独立」、「国際に委任管理」、「二つの中国」といったことには否定的で、「中国は一つであるけある」という民族立場に立っていた。1975年4月5日に台北で病死した。

周信芳

寧波市江北区慈城町新路という交差点に、素朴で昔ながらの建物がある。「全恩堂」といわれ、現代京劇界で傑出した表現芸術家の周信芳氏の旧居である。

周信芳(1895~1975)、名は士楚、芸名は麒麟童という。寧波慈城の出身で、現代中国京劇界の傑出したアーテイストとイノベーターでもある。七歳から陳長興に師事し、七齢童という名でロウショウ(老生)として杭州でデビューした。五?四運動の前後には、周氏は新文化のもとで、袁世凱を非難しようと「宋教仁」や「学拳打金剛」などの新劇を演じた。譚鑫培、馮子和などの影響を受け、王鴻寿、江笑儂、潘月樵らの協力も受け、数多くの脚本を書いたり改作したりし、長い間上海で活躍していた。かつ、芸術の面で大胆に新機軸を打ち出すこと、伝統演劇の写実主義を受け続き、そして発展させること、独特の演技で数多くの役を演じて、独自のスタイルを成し、「麒派」と言われている。麒派の師匠として、代表的な劇は「四進士」、「徐策跑城」、「蕭河月下追韓信」、「清風亭」、「義責王魁」等等がある。中日戦争の時には、国の救済運動に積極的に参加し、愛国心を宣揚する劇を書いて演出していた。解放戦争の時期には、愛国的民主化運動に加わっていた。建国後、中国演劇研究院副院長、華東演劇研究院院長、上海京劇院院長、中国戯作家協会副主席、上海文化?芸術協会副主席、中国戯作家協会上海支会主席などの職を歴任した。著作に『周信芳戯劇散論』、『周信芳演出劇本選集』、『周信芳演出芸術』がある。麒派は国内外で影響が強く、非常に人気がある。

1985年4月2日、即ち周信芳氏生誕九十周年の記念日に、中国元国家主席李先念氏から「麒派芸術の精神永遠に残る」、全国政治協商会議元委員長鄧頴超氏から「周信芳氏の九十歳の誕生日を記念し、革命意志と芸術革新の精神を学ぼう」という題辞があり、しかも周信芳芸術研究会も創立された。

潘天寿

潘天寿(1897~1971)、本名は天授、字は大頤、寿者と号した。寧波市寧海県出身、父親の潘達品は清末の秀材である。小さい頃から絵が趣味で、故郷の山で名づけられると伝えている「雷婆頭峰寿者」という落款は多くの作品に残っている。

潘天寿氏は長期的に絵画と美術教育に力を尽くしていた。新中国建国後、中国美術家協会副主席を任じ、浙江美術学院院長を務めた。写意の花鳥、山水に長じ、昔は徐渭、朱耷、原済(石涛)といった先生、近くは吴昌碩を師としていた。彼の作品は、険しさの中に穏やかさを求め、剛の中に柔が見られ、格調が高く、素朴で、勢いが強い。それに、詩?書?絵を一体とし、独自のスタイルになった。人物を描き、絵画史?絵画論にも研究し、透徹的に論証していた。「山に雲がなければ、霊しない、山に石がなければ、珍しくない、山に木がなければ、綺麗とは言えない、山に水がなければ、生きられない」という絵を描くとき、心を治め、落ち着かざるを得ない。心を治めたら静かになり、落ち着いたら熟練になる。僧衣を繕っている僧侶のような静かさと蚕が糸を吐いているような熟練さ、それは自然ながらで筆にはできないことである。」と『聴天閣画談随筆』の中に、こう書いてある。そのほかいろいろな論述は『中国絵画史』、『治印談叢』などの著作に集められている。

沙孟海

沙孟海(1900~1992)、本名は文若、字は孟海、号は石荒·沙村·决明で、鄞県沙村の人。名医家庭の出身、父親の教えを受け、小さい頃から彫刻を習い、慈渓錦堂学校、そして浙東第四師範学校を卒業した。二十歳、彼の書道がもう広く知られていた。1922年、沙氏が上海で家庭教師を勤めている間、昔から憧れている康有為と呉昌碩に恵まれ、その後の書道と彫刻に深遠な影響を及ぼしている。1925年商務印書館の教師職を務めているうち、馮君木と陳屺懐から古文学を習い、技を大幅に上達させた。章太炎が主催した「華国月刊」に、沙氏の金石文字は掲載されたことが何回もあった。

1927 年、革命事業に加盟した弟は当時の国民政府に指名手配され、実家の全財産は一つ残さず奪い去ったがゆえ、沙氏はためらうことなく、家族をつれて上海まで行き、書道と借金を通して生計を立てていた。そのうち、骨身を惜しまず努力しつつあり、一層腕を磨いた。1929年、彼は29歳の若さで広州中山大学の予科教授に採用され、それから1931年から南京中央大学、教育部、交通部の秘書を歴任した。1941 年陳布雷に推薦され、蒋介石の侍を務めていたが、台湾に行くのを拒否した。新中国建国後、浙江大学中国語学部教授、1963年浙江美術学院中国絵学部書道学科教授、1979 年西冷印社社長及び中国書道家協会会長を任じた。1992年杭州において逝去した。

沙孟海氏は70年間の経験を持ち、現代書道界の泰斗として尊敬されている。民国政府以来、現代書道の発展を自ら経験してきた。五十歳前には篆書体、隷書体、真書体、行書体と草書体など各スタイルに触れ、晩年には行書体と草書体に精通している。彼の書道は勢いがすばらしく、雄渾でたくましく、独自の風格を持つようになった。沙氏の技が広くて深い、すでに最高の域に達したと言えよう。彼は物知りで、経験が豊か、研究態度が厳しい、書道?古代文字学?彫刻学?金石学と考古学にも深く研究していた。著作の面のみでも、『この三百年間の書道』、『印学概述』、『沙孟海論書叢稿』、『印学史』、『中国書道史絵本』、『沙孟海書道集』、『蘭沙館印式』、『沙孟海写書譜』といった本があり、それに『中国新文芸大系?書道巻』を編集した。

包玉剛

包玉剛、旧暦の1918年10月13日に寧波市鎮海庄市鐘包村に生まれた。1931 年、小学校を出てから一人きりで漢口まで行き、父親のもとで靴、帽子の商売を学んだ。1938年、また上海に行き、中央信託局に入り、そして1940年に衡陽事務所に派遣された。頭が利くし有能であるため、のち中国工鉱銀行重慶支社の社長に抜擢された。中日戦争が終わった後、彼は上海に戻り、日本帝国銀行の資産の接収に加わり、上海銀行の副社長に抜擢された。当時の彼は28歳に過ぎなかった。1948年、30歳という年を過ぎたばかりの包氏は上海を出て香港に向かい、人生の新たな一頁を開いた。1956 年、初めての貨物船「金安」号を購入し、環球株式会社も続いて創立した。その後、包氏は船団が順調に拡大され、国際海運業の優れた新米で、多くの海運王を超えた。1977 年に至り、そのトン数は、世界海運の最高位に昇った。「香港の海運業は間接的に香港の金融界及び商工業界の発展に刺激を与えただけでなく、経済の促進や雇用チャンスの提供、もしくはそのほかの間接的な収入に役に立った。」80年代になったら、英系の九龍貨倉株式会社と会徳豊抑制株を買い上げ、香港財閥トップテンになった。海運、不動産、倉保存、埠頭、交通、ホテル、電気通信、小売、金融など様々な業界を含めるわずかに李嘉誠家族に劣る華人財閥でもあり、香港の華人資本の力を強めた。

仕事に成功した包氏はずっと中国大陸の発展に関心を持っており、20 世紀70 年代以後、いろいろな形で国家を報いたり故郷に幸福をもたらしたりし、香港返還と中国の近代化建設に貢献し、広く褒められた。

1991年9月、包玉剛氏は病気で逝去した。香港の繁栄と安定性への貢献を国内外各業界の人々から高く評価された。「祖国の建設に熱心で、『一国二制度』の実現に身をもって努力してもらって、国に役立った。」「民族振興、国の統一と香港の繁栄?安定性に力を尽くしてきた。」と江沢民氏と鄧小平氏はそう称賛した。

路甬祥

中国科学アカデミーの院長、党幹事長および流体伝動と制御学者である路甬祥は、1942年4月28日に浙江省寧波市に生まれた。彼は1964年に浙江大学を卒業して、1979年までの何年間で助教授、講師として大学で働いていた。その後、ドイツの大学で液圧気動研究所のフンボルト学者になり、1981年に連邦ドイツの大学で工程博士学位を取得した。それから、その当時、浙江大学の講師、副教授と流体伝動研究室の主任となり、また、1983年に教授に昇進し、機械工学部流体伝動研究所の所長を担当し始めた。ついでに、1985年に副学長に命じられて、また1988年に学長に選ばれ、1995年までずっと大学で学長の役割を果たしていた。それ以外、路甬祥は1995年と1997年に香港科学技術大学工程名誉博士と香港城市大学工程名誉博士の学位を別々取得した。科学の分野で、彼は1993年に中国科学院の副院長に命じられて、翌年、常務副院長に昇進した。1990 年に第三世界科学院院士、翌年に中国科学院(技術科学部)院士、1994 年に中国工程院院士を別々当選した。1986年から1996年までの十年間、中国科学協会の副主席を担当していた。1990 年から 1994 年まで国家教委高等教育諮問委員会主席に就任した。1989年から1992年まで国際引き続き工事教育協会副主席にも就任した。それ以外に、彼は6期の全国人民代表大会代表、中国共産党の12期、13期の中央候補委員、14期、15期の中央委員となった。路甬祥は今就任している職名は中国科学院院長、中国科学院学部主席団執行主席、国家自然科学基金委員会の委員、国務院学位委員会の副主任委員、国家科学技術賞の審議委員会の委員、中華海外友好会の副会長、大学教育委員会(香港)の委員、香港革新科学技術委員会の委員、中国機械工程学会の副理事長、中国自動化学会の常務理事、中国の科学技術史学会の理事長、中国引き続き工事教育協会の顧問、浙江大学の教授、国家行政学院の客員教授、清華大学の客員教授、山東大学の顧問教授、上海大学の顧問教授、モンゴル共和国ウランバートル大学の客員教授である。

路甬祥が機械工学、特に流体伝動と制御、高等工程教育などの領域で重要な貢献を捧げたことがあって、曽ては欧米と中国などの国では20項の特許を獲得して、国内外で250数本の重要な科学研究と工程教育論文と2冊の科学的な著作を発表したことがある。先行研究を踏まえて、彼は創造的に「系統流量検測力フォースフィードバック」、「系統圧力が直接検査?測定してフィード?バックする」などの新しい原理を出して、そしてそれを先導流量と圧力制御機器に応用して、すでに100年余り用いられてきたフレミング理論と40数年来の伝統的なウィケスの先導型圧力コントローラ動作原理を変えて、「2 通挿し込み式電液体の割合流量制御装置」及び「電液体の割合圧力制御装置」などの特許を5項目得て、大流量と高圧の範囲での安定状態と動態制御精度を著しく高めた。そしてこれらの原理と機~電~液一体挿込技術と互いに結合して、普及させて閥制御、ポンプ制御と液圧モーターなどのメカニズムに適用して、見事に一連の新型電液体制御機器と工事システムを開発した。この技術は20世紀80年代から電液体制御技術の重要な進展の1つと見なされる。ドイツ、日本、スウェーデンなどの数多い国はこれを教材、手帳専門書に入れてある。1997年にドイツ連邦のルドルフ?ディーゼルの金賞を入賞し、1998年にフンボルトの表彰メダルを得て、2000 年にドイツ連邦の星ランクグランド十字勲章を獲得した。彼が開発した電液体割合技術が国家科学技術委員会によってたいまつ計画A種類プロジェクトに称されて普及されつつある。また、彼は対応のCAD、CATシステム開発工事を主宰して、幅広くの工業部門に応用されて、我が国の機械工業の技術進歩を推進した。これらのプロジェクトはかつて 1988、1989年の国家2等賞、3等奨と光華科学基金特等賞を達成して、教育委員会、浙江省、機械設備と電力設備部一等賞など多くの奨励を得た。彼が創建した浙江大学の流体伝動と制御研究所はすでに国家の重点実験室、ポスドク臨時職場にもなる。博士課程学生の指導教官としての彼がすでに30人の博士、25人の修士および5人のポスドクを育成した。1984年に路甬祥は中青年科学技術専門家の国家級称号を授与され、1982、1985年2回は浙江省の模範労働者に選ばれて、1989 年全国の先進工作者(勤労者)の称号を授与された。彼が教育分野においても傑出した業績を取ったため、1989年に国家高等教育賞を獲得した。

童第周

童第周は1902年5月28日に浙江鄞県(今浙江省寧波市鄞州区)に生まれた。貧困な家庭で暮らしたため、17歳になってはじめて学校に入ったのである。1927年に復旦大学の生物学部を卒業して、1930年にベルギーの大学の科学博士の学位を取得した。帰国後、かつて一度引き続いて山東大学、中央大学の医学院、同済大学、復旦大学の教授を担当して、中国の心理生理研究所の教授、イギリスのケンブリッジ大学、米国のエール大学の教授、1948年中央研究院の院士に選ばれ、1955 年に中国科学院院士(学部委員)に当選され、それから、中国科学院発育生物学研究所の教授、中国科学院の生物学部主任、中国科学院副院長を務めた。または山東大学の教授、副学長を歴任して、第3、4期の全国人民代表大会常務委員会の委員、全国政治協商会議の副主席に当選された。中国実験発生学の創始者と認められた。彼は分裂ボール生体染色方法によって、ホヤの象眼型発育の極性あるいは軸性を証明して、繊毛の動き行為を実験対象と極性指標として、胚胎極性というような胚胎発育の重大な問題を探求した。ナメクジウオの発育の面で、童第周は分裂ボールの間の相互関係を研究し、胚葉の相互関係及び誘導作用などを探究し、胚胎学界でナメクジウオに対しての個体発育に全く新しい認識を提出した。それに、システム育成を理解するのに啓発の働きを果たすことができた。晩年に細胞核と細胞質が発育の中で生まれる関係の研究を行い、個体発育の中において、核と質の間は互いに独立しているのではなくて、とても密接な関係があることを証明した。1979年3月、彼は浙江省科学会議で報告する際、不幸にあって、脳血管が破裂して、壇上で卒倒した。同年3月30日に逝去して、享年77歳。彼は長年に渡り、多くの学生を育てた。そのうちに、国内外で有名な学者が数多くある。

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